大里三旺研究所 所長
MILAGROSA S. CUADRA P.H.
フィリピン大学卒業
フィリピン大学ディリマ校での微生物学の修士過程終了後、ユネスコと日本政府によるInternational Post-Graduate University 微生物学コースの院生として、大阪大学、東京大学、 東北大学、九州大学、京都大学を経て株式会社三旺インターナショナルにて分析研究員となる。
今回、大里三旺研究所の所長に就任したことをとても光栄に思います。 故・大里博士との出会いは、1988年に私が岐阜大学で微生物学のインターショップを始めた頃からになります。当時の大里博士は、後にノーベル賞受賞者となるフランスのリュックモンターニュ博士や、酵素学の第一人者であったアメリカのレスター・パッカー博士と共に癌治療における先端研究を行っており、畏敬の念を抱いていました。特に1997年から2000年にかけて、大里博士の偉業が世界中に知れ渡り、医学工学・科学アカデミー・ロシア部会よりアカデミシャンに叙せられ、国際老化学会においてはトップ科学者の証である「クオリティ・オブ・ライフ賞」を受賞されました。また、米国カリフォルニア酸素学会国際大会では、大里博士、レスター・パッカー博士、ルック・モンタニエ博士との3名の連名にて「サイエンス&ヒューマニティ賞」を創設されるなど、医学工学の発展に尽力されました。
丁度その頃、私はフィリピンのOsato Bio-Industry Corporationにて研究者として大里博士と共に微生物学の新たな可能性を求めて挑戦を続けていました。大里博士は寝る時間を惜しんで、バイオ・ノーマライザーの開発と研究に没頭されていました。三旺インターナショナルも組織がだんだんと大きくなり、マーケティング部門やセールス部門が新設され豊かになってきました。しかし、博士は私たち研究者だけには、周りの華やかさに惑わされることなく、質素を旨とし、決して驕ることなく研究一筋に生きるよう説いてくださいました。ご自身が研究を始められたころのご苦労話や質素倹約に努めた生活、その環境を許し多大な支援を続けた奥様に対していつも感謝の言葉を述べてられたことを思い出します。
私は開発途上国のフィリピンで生まれ学んできました。絶望的な貧困状態で、まともな医療を受けることなく亡くなっていく多くの同胞を見てきました。そんな人々を一人でも多く救うことを夢見て学問に打ち込んできました。ユネスコの支援を受けて、初来日したときの空港の美しさ、衛生インフラ設備の充実に感動しました。もちろん、四季の彩り、初めて体験した雪の美しは、いまでも目の奥に焼き付いています。日本人の繊細な気遣いの源流に触れる思いでした。ただ正直いうと、日本人の嫌なところも気付かされました。それは、お金儲けになると周りが見えなくなることです。すべての日本人がそうでない(厳密にいうと当時の三旺のスタッフのごく一部の人だけ)かもしれません。
研究畑一筋の私にとっては、研究よりもマーケティング活動に力点が置かれ、研究自体を宣伝に利用しようとすることに違和感を感じました。例えば、バイオ・ノーマライザーのストレステストの治験において、世界の大統領の数より少ないレーシングドライバーや宇宙飛行士に用いるよりも、フィリピンの最悪な道路状況でジプ二―のドライバーを検体に選ぶ方が妥当ではないかと思っていました。レーシングチームに費やすよりも、貧困国の交通遺児のヘルスサポートをする方が、私たちの力は役立っていると感じることができます。
“ 質素を旨とし、決して驕ることなく研究に邁進する。”
大里博士から譲り受けたこの精神を大事にし、あらゆる人の平和を願って、ご挨拶とさせていただきます。